世の中
この自分 その自分 あの自分
…
どの自分でも絶対にうまくいかない
一時的にうまくいった事を感じるだけ
ああなれば そうなれば こうなれば
…
どうなっても満足は続かない
前との比較を感じている間だけ
とことんやりたい事をやって、なりたいようになってみないと自分は納得しないかも。
でも多分薄々どっかでみんな感じてると思う。
自らが分かれると書いて自分
自分が大きくなると、自らが大きく分かれる
それはとっても強い苦しみ
そしてどこかに救いを求める。
そして、そんな自分が変われば…と同じサイクルにハマる。
輪廻転成って本当はそういう意味なのかも。
神とか、誰かとか、何かとかを信じるのも、その間自分から離れる事で、楽になるんだと思う。
本当は自分はいないのに、いる事を感じるゲームの世界
本当は救われてるのに、救いを求めるゲーム。
それがこの世の中
いつもここで
いつも愛に抱かれてる
この感覚は愛の表現
自分はほんとは自分じゃない
ずっとここにいたいと思う。
ずっとここ
いつもここで愛に抱かれてる
自由の中
自分ってただの檻のようなもの。
自分自身が檻。
でも檻の中に自分がいて、不自由なんだと感じている。
檻の中には誰もいない。。
檻の中でも外でもなく、
自由の中に檻がある。
「分かった」のフィルター
究極のリアルは誰も知ることができない
「分かった」をつかむことで、もう違っている
「自分は知っている」がフィルターになって、見えなくなる
「自分が知っている」のは、究極のリアルの概念でしかない
なにも知らないという自由
間違うことも間違いではなくなる
違うことも、違うことではなくなる
影
深刻さ、暗さ。
それは影
自分の影
自分という幻想がはっきりしてくると、そこに影もはっきりと映る。
自分という幻想が薄らいでいくと、同時に影も薄らぐ。
影は幻想。
リアルに感じる幻想。
本当は光しかない
影は光の遊び
感性
感性がリアリティーを察知する。
知識で見る世界は、そのままの世界を見ているというよりは、知識というフィルターを通して世界を見ることになる。
そのフィルターが分厚いと、フィルターしか見えていないことになる(ファンタジーの世界)。
もはや世界は世界ではなくなってくる。
ありのままを見る時に知識は全く必要ない。
感性がリアリティーを察知する。
情報は感性によって嗅ぎ分けられる。
本物と偽物があるとしたら、本物は自然。偽物は不自然。
これを感じる感性が、リアルへの指針。
子供の楽園
子供の楽園は、何かを教える人も何かを教わる人もいない。
自由が自由に表現されているだけ。
させることもさせられることもない。
だけどそこに、鳥たちが同じ方向に飛んで行くように
自然な規律が生まれる気がする。
愛が子供たちを案内する。